■橋脚の異なる旭川橋梁
旭川橋梁 建部側から

​津山線で、最長の建部・福渡間に架かる旭川橋梁橋脚を見ると、建部側はコンクリート製、一方​福渡側の二つは石と煉瓦で作られ、明らかに異なる​何、こうなったのでしょうか?

旭川橋梁 福渡側から
■室戸台風の来襲

​昭和9年9月21日室戸岬(上陸時気圧:911.6hPa)に上陸、阪神間に再上陸し若狭湾に抜け京阪神を中心に甚大な被害をもたらした猛烈な台風。この時、岡山も県北を中心に大雨が降り、殊に旭川上流域で多かった為、旭川流域で大洪水が発生、岡山市内も大きな被害をうけましたが、中流域も被害は甚大で、当時の久米郡福渡町も甚大な被害を被りました。21日早朝には、八幡橋が、午前10時頃、中国鉄道の旭川橋梁が流失しました。

室戸台風鉄橋流出.jpg

洪水に襲われている旭川橋梁周辺(「中鉄九十年の歩み」より 撮影者不詳)

福渡旭川鉄橋流出江見写真館さん.jpg

水が引いた後の旭川橋梁周辺(津山 江見写真場提供)拡大すると対岸の被災状況がよくわかる

■復旧への途

​台風通過直後は全線不通だった中国鉄道線も復旧工事が進みましたが、旭川橋梁の復旧なくしては、全線復旧はありなかった為、中国鉄道は、鉄道聯隊に復旧工事を依頼しました。

​事前の視察、協議の結果、演習として復旧工事が行われることになりました。これは、中国鉄道としては、資材を提供することだけで、復旧を図ることができ、一方で、鉄道聯隊としては、資材を調達することなく、演習ができるということになります。

■鉄道聯隊とは

​・設けられた目的:戦地での鉄道の建設・運転・保守や相手の鉄道を破壊する役目をもった部隊とされます。

前半の略史は:兵站の重要性に鑑み、ドイツ軍の例などを参考に明治29年にできた鉄道部隊に端を発します。

  ​戦争の度にその重要性が認識され大隊、聯隊へと拡充され、大正7年には、千葉と習志野の2聯隊の体制へとなります。

  大正12年に発生した関東大震災により被災した鉄道の復旧に従事します。

平時の活動は:千葉県内の専用線や、連隊内で演習を行う共に、県内・近県の鉄道路線の建設にも携わったようです。

 特に千葉県では、道路、鉄道路線共に不十分だったこともあり、地域開発に県営鉄道の建設が推進され(JR久留里線等)

 その建設にも鉄道聯隊が携わっていました。

派遣直前の動きは:第一聯隊は、昭和7年から満州事変に派遣されていましたが、昭和9年2月に復員しています。

 ・・・そのような状況下に旭川橋梁の復旧の依頼があったものかと推測されます。

■鐡道第二聯隊のあった習志野市HPには、鉄道聯隊のページがあります。こちらから

■千葉駅の近くにある千葉公園はかつて鉄道聯隊の演習場があった場所で今でも遺構が残っているこちらから

日中戦争・第二次世界大戦には:昭和9年に満州に第三聯隊が編成され、その後も、次々に聯隊が組織され現在の中国や、

 東南アジアに送り込まれました。(最終二十聯隊迄組織)

 映画「戦場に架ける橋」で有名な泰緬鉄道(タイ~ビルマ(現ミャンマー))は、第五、九聯隊により多くの捕虜や

 現地人労働者等の犠牲の上に建設されました。

■鉄道聯隊の岡山への復旧支援(千葉では・・・)

旭川橋梁の復旧支援について、関連資料が残っていないか調べてもらいましたが、派遣命令書のような公文書などはみつかりませんでしたが​当時の新聞記事を紹介していただきました。(アジア歴史資料センター等)

千葉毎日新聞1934-10-12 P3記事 .jpg

鐵道修理を賴まれて鐵聯兵五百出發

災禍の岡山縣私鐵復舊に

 

千葉市外鐵道第一聯隊では今回風水害の激甚地岡山縣私設西線鐵道會社の依賴に應じ岡山津山間の同社鐵道の復舊工事のため兵員五百名を派遣し軍事作業によつて復舊工事を行ふことになつたが期間は十二日から來月七日まで廿七日間に亘るもので一部出發隊は既に出發し大部隊は十一日午後七時五十二分千葉驛發列車で同聯隊所屬半田、岩瀨少佐指揮のもとに勇躍出發罹災地へ向かつたが二個大隊に分かれて作業にかゝる筈であるとなほ未曾有の大暴風雨で關東大震災につぐ慘禍を蒙つた關西地方に對する同情が全國的に湧き關西地方を救へとの聲がしきりに起つてゐる折柄この鐵道聯隊の擧は罹災地方民から感謝されてゐる

千葉毎日新聞1934年10月12日記事(千葉県立図書館所蔵)

■鉄道聯隊による復旧工事

復旧工事については、山陽新報(現山陽新聞)が連日の様にその進捗状況等を、紙面で紹介しており、これについては

鉄道雑誌「レイル №82(2012/4)」に「中国鉄道と室戸台風」と題した記事を掲載しており、詳細はそこから辿ることができます。ここでは、「中鉄九十年の歩み」「建部町史 通史編」の写真を中心に先の記事の内容も参考にしながら紹介します。

橋脚の建設:流失した橋脚の残骸は爆破し、新たに木組みで人力で行われた

橋脚組み立て 建部町史 通史編

木組みの橋脚(「建部町史 通史編」 撮影者不詳)

橋脚の木組み作業 中鉄九十年の歩み

作業の様子(「中鉄九十年の歩み」  撮影者不詳)

橋桁の設置

流失した橋桁の回収や・運搬は困難を極めた模様。一部のガーダは玉野の三井造船での​修理が必要で期日がかかる為、その部分は木製の橋桁を用いた

橋脚にガーダを載せる 建部町史 通史編

ガーダの設置(「建部町史 通史編」 撮影者不詳)

旭川鉄橋復旧工事 橋桁設置 中鉄九十年の歩み

作業の様子(「中鉄九十年の歩み」  撮影者不詳)

復旧工事完成:昭和9年11月24日、約2ケ月ぶりに全線運転を開始

試運転 建部町史 通史編

試運転列車(「建部町史 通史編」 撮影者不詳)

復旧工事後の旭川鉄橋を行く列車(中鉄九十年の歩み)

復旧直後の列車?(「中鉄九十年の歩み」 撮影者不詳)

■復旧工事中の輸送について

復旧工事中の中国鉄道線の運行の様子は復刻版の昭和九年の時刻表からう窺うことができる

昭和9年 復刻版時刻表

​鉄橋のそれぞれ南北に臨時停車場が設けられ、その間は、渡船により連絡していた。(道路橋の八幡橋も流失)

​現在のコンクリート製の橋脚はいつできたものかは、明確ではない。

昨今、被災した地方鉄道の中には、投資の問題などで、復旧を断念し、廃線となる例も耳にする。私鉄の中国鉄道が費用を抑制しつつ、最短での仮復旧を果たすことができたのは、鉄道のプロ集団である鉄道聯隊の活動があったればこそと考える。

■戦後にもあった「鉄道部隊」

​101建設隊で、1960年に、国内の鉄道の災害復旧、又国鉄の労働争議時の輸送確保などを目的に設立された。

​昭和38年の豪雪(三八豪雪)、昭和39年の新潟地震時には災害派遣されている。会計検査院から所有していた蒸気機関車の維持費用などが税金の無駄遣いにあたるとの指摘をうけるなどしたことから設立から6年で廃止された。モータリゼーションの流れに抗しきれなかったとの見方もある(Wikipedia参照)

​〔参考文献〕

「中鉄九十年の歩み」   中鉄バス

「津山線・吉備線百年史」 久保豪氏

「建部町史 通史編」   建部町

「レイル №82;中国鉄道と室戸台風」

​「汽車時間表 昭和9年12月号」

「鉄道聯隊の歴史」   習志野市ホームページ

「千葉毎日新聞記事」 千葉県立図書館所蔵

「岡山県砂防の歴史」Web版

​         他

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